The workers are goin’ home

SEのブログです

町田市街地に行って、いろいろ生活必需品などを買う。
商品券が使えたので、一風堂町田店で食べる。あれ、一風堂ってこんな味だったっけ。昔と少し違う印象。
まぁ美味しかったけど。


駅前でフェスタまちだなんてイベント(お祭り)やっていて、ものすごい人出だった。


昨日9月10日は世界自殺予防デー。
今週は自殺予防週間。いろいろ複雑な気持ちだ。心にとどめておかないと、と思う。


そして、今日は、東日本大震災から半年。
あの日は浦安舞浜で、液状化していく町の現場を目にして、なんだかとんでもないことが起きた、と思ったものだった。その後避難所に避難しながら、ワンセグを観て、東北ではもっと大変なことが起きていることを知り、愕然とした。
半年経った今でも、途方もない被害に、ただ呆然とするばかり。数値化することに無力感を感じるほどの甚大な被害。
犠牲者の方々のために、ひたすら黙祷するしかなかった。
もう半年なのか、まだ半年なのか、わからない。
ただわかったことは、人間は、自然の大きさにはどうしてもあらがうことができないということ。
そして、世界は、文明の進展ということについて、立ち止まって考えなくてはいけないということ。
原子力という文明の利器と思われていたものは、人間が制御できるものではないということ。
それは、60年以上前に、原爆という救いのない、そして許しがたい殺戮兵器によって、既に証明されていたのに、人間は、立ち止まって考えることはしなかった。
平和利用という名目と、政治家、ゼネコン、電力会社など、有象無象の利権のために、利用されてしまった原子力。自然の猛威の前に、全く無力で、メルトダウンという聞いたこともない現象を引き起こし、目に見えない毒を吐き出し続ける羽目になってしまった。


そして、この夏、分かったこと。原子力発電所がなくても、決して電力不足にはならないということ。電力使用ピークの昼間、ほんの少しの節電意識で、電力は充分供給できる。
電力会社の垂れ流す危機意識に欠ける情報に、我々は麻痺させられていた。電気は当然そこにあるもの、と、思考を停止させていた。
半径何十キロもの範囲に住む人々が、未だに避難を余儀なくされ、神奈川のお茶にまで基準値(そもそも基準値ってなんだ?)を上回る毒物が紛れ込んでしまうようなものを生み出す、悪魔のような施設は、必要ではない。というか、今後必要としてはいけない。
人間は等身大の新しい生き方を、生み出していかなくてはいけない。決して背伸びしてはいけないのだ、ということを、教えられたような気がする。


当たり前のことを書いてしまった。でも、この当たり前のことをちゃんとできるのか、原発をちゃんとなくしていくことができるのか、というのが、今後の大きな課題だと思う。きっと難しいと思う。
権力を持っている人は、市民の安全より、お金というものを大事にするから。そんな権力者は、常識を持った市民がちゃんと判断して、利権の座から引き下ろしていかなくてはいけない。
大変だけど、少しずつやっていくしかない。


kerokero12さま、7日のブログに星2つ(!)ありがとうございます!しりあがり寿の漫画は、本当に素晴らしいですよね。何度も読み返しています。「海辺の村」は、単純に脱原発を訴えるものではなく、考えさせられます。自分はもう単純に、何があろうが脱原発派なのですが。。。